港崎遊郭

港崎遊郭(miyozakiyuukaku)

1859(安政6)年 現在の横浜公園の場所に設けられる
1866(慶応2)年 大火で焼失し、羽衣町周辺に移転
1871(明治4)年 火災で焼失
1872(明治5)年   高島町へ移転
1877(明治10)年 真金町・永楽町へ移転した

その後この遊郭は姿を消した様です。

上記を見ると何度も火災にあっていますが、1866年の大火は横浜始まって以来の被害があったそうです。
港崎遊郭の近くにあった豚屋(肉屋)から出火したために通称「豚屋火事」と呼ばれました。
この火事により遊郭は全焼、市街中心部の日本人居住地区の3分の2、外国人居留地の4分の1が消失しました。

これにより「横浜消防組」が強化され、火災の際の延焼を防ぐため幅広い道路を設けました。これが「日本大通り」の基礎です。

当時はこの日本大通りから東側(元町側)が外国人居留地。西側(桜木町・野毛側)が日本人居住区でした。
写真の右側が外国人居留地。左側が日本人居住区。


日本大通り(横浜公園より海側を見る)


もちろん当時の記録はほぼ残ってないのですが、元々遊郭があった現在の横浜公園には
当時一番立派だった遊郭「岩亀楼」の石灯篭が日本庭園の隅にひっそりと残っています。




また、現在横浜市西区戸部町に「岩亀楼」の「岩亀」名を冠した小さな稲荷社があります。

細い通路を一番奥まで行くと

左側にお稲荷様が。


案内板説明文

横浜の開港は安政六年(1859)開港当時の横浜の歓楽街は港崎町(横浜スタジアム辺りで隣接する日本庭園に岩亀楼と刻まれた石灯篭が保存されている)から高島町に移り1.2を争う大楼、岩亀楼があった。三層櫓式の楼閣がその偉大さを誇り夜目にも美しく人々の話題となった。
当主は佐吉といって、埼玉県岩槻の人で、その音読みで「がんき」と呼ばれていた。
この岩亀楼一番の売れっ子、喜遊大夫(亀遊説もある)がペリー艦隊の軍人に言い寄られたがこれを拒み、有名な辞世「露をだにとう倭(ヤマト)の女郎花(オミナエシ)ふるあめりかに袖はぬらさし」を残して自害した。
この句から幕末の遊女気質が十分伺える。遊女たちが病の時、静養する寮が今の岩亀横丁にあり、遊女たちが信仰していたお稲荷様が寮内にあったので岩亀稲荷と呼ばれ現在も信仰が受け継がれている。
このお稲荷様を粗末にすると必ず近所の夫人に災いがおこると言い伝えられ、毎年5月25日には盛大に例祭が行なわれている。

有吉佐和子著「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の舞台も喜遊大夫がモデルである。

岩亀稲荷講

幕末当時、遊郭には外国人の相手をする遊女と日本人だけ相手する遊女がいたそうで喜遊大夫は日本人だけを相手にしていた方の遊女でした。

それが外国の軍人に気に入られ、大金をつまれて逃げられなくなり辞世の句を残して自害した…というのが主になっているお話です。


ただ、上記の案内の中に出てくる辞世の句に関しては後世の創作ではないか、とも言われています。というのも1970年に有吉佐和子さんが婦人公論で発表した短篇「亀遊の死」の中で喜遊大夫が自害した後に、喜遊大夫と同じ遊女で幼馴染だった園子が話を盛り上げるために付加した、となっています。


いずれにしても有吉さんの名作といわれている戯曲です。
2017年にも上演予定がありますので興味のある方はぜひどうぞ。


●「ふるあめりかに袖はぬらさじ」
 2017年7月 東京・明治座にて上演予定
 出演:大地真央
 詳細は明治座のホームページで確認を → http://www.meijiza.co.jp/info/#info2017_07



余談ですが、笑点の終身名誉司会者である歌丸さん(昭和11年生まれ)の生家が真金町にあった妓楼「富士楼」だそう。






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